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 NHK「アウシュビッツ」を見て。

「アウシュビッツ」と題された全5回シリーズのNHKの番組を見た。アウシュビッツ収容所にまつわる話は、第二次世界大戦中の悲劇として、もっとも語られることが多い。今回のテレビシリーズはもともとイギリスのBBCが作成したものであったが、全5回のシリーズにわたり、関係者の証言をもとに当時の様子を忠実に、かつ詳細に再現している。情報量も多く、大いに勉強になるよいシリーズだったと思う。

しかし、気になる点も多かった。

まず、番組の構成それ自体が偏っているのではないか、という疑念がある。
番組ではアウシュビッツの収容所に関係した人のうち、現在まで生存している人へのインタビューや関係者の証言と関連の文献への調査の結果を中心に、再現ドラマと復元のVTRから作られている。インタビューと証言は、元ユダヤ人囚人、元ポーランド政治犯、元ドイツ親衛隊員、また、元イスラエルの諜報機関員などへの取材によっており、被害者だけでなく加害者側も聞き取りを受けていることから、一見バランスが取れているようにみえる。どちらかに印象が偏らないようにという製作者側の配慮が伝わってくるような構成ではあったが、私はここで、そもそもインタビューと証言という「証拠」を主体にして番組を仕上げることに問題性を感じている。そもそも人による証言は、その人の記憶を根拠としており、はたしてその証言が正確な事実かどうかは判断しがたい。記憶は証言者の感情や偏見、思い込みや体験などから切り離しえず、そうしたさまざまな要素が複合的に作用して形成される。したがって、同じ場所に居合わせて、同様な経験をしたはずでも、その証言が異なって記憶される可能性もあり、さらに個人的な感情が、経験を誇張(あるいは矮小化)しうる。このように考えると、証言それ自体はきわめて曖昧な証拠で、正確性や信憑性に大いなる疑問が残る。

しかしながら、聞き手側に対しては、証人の証言は絶大なる重みを持っている。「アウシュビッツの惨劇を生き延びた人の証言」に対して疑問を口にすることは、その人自身の生き方を否定することにつながりかねない。年配者の意見を聞かないわけにもいかないという感情も働く。この場合、「現実を体験した人が言っているんだから」という一言によって、証言を疑問の余地なく受け入れられなければならない。ここにおいて、そもそも信憑性が疑わしいことに、証言は絶対的な信頼を強要しているのである。これが、証人と聞き手の絶対的な権力関係が内包している構造である。

くわえて、番組ではごくごく限られた人数の証人しか登場しない。私の数えるところによれば、おそらく5〜6人程度であっただろう。確かに、もう60年異常も昔のことであり、証言者を探す苦労と困難は大いに理解できるところであるが、これではアウシュビッツの一面的な理解に過ぎないと言うことも可能であろう。

とはいえ、内容に結局のところ偏りがでるからといって、このような番組の制作や放映をするべきではない、と否定しているわけではない。むしろ、積極的に様々な角度から切り取った様々な「事実」を知らしめるべきであると考える。だが、どうしてもテレビ番組ではある程度のわかりやすさを担保するために、単純化せざるを得ないということ、あるいは、一面的にしか言及できない場合のあることを、少なくともテレビに対して一方的な視聴者である私たちは認識しておく必要があるように思う。

現実を体験した人による証言と向き合うことは非常に難しい。どうせ記憶は曖昧で信用できないからといって切って捨てることもできないし、証人が事実だと主張しているからといって鵜呑みにすることもできない。夏のゼミ合宿で長崎を訪れる。被爆者をはじめとする多くの人と会い、話を聞く機会があると思われる。そうした中で、被爆の記憶と語り方について考えてみたい。

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